教育実践「敬天愛人」//社会/6年/南京事件
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南 京 事 件

南京戦で,日本軍の虐殺は本当にあったのか

TOSS SANJO/小林義典
よしのりホーム

Webワーク(授業資料:0.7MB)

【指示】中国にある南京事件の記念館です。数字を読んでみましょう。

【発問】30万とは何を表わす数ですか。

【説明】南京事件で日本軍が殺したとされる中国人の数です。
    今日は,このことを考えます。

【説明】1937年(昭和12年),日本軍は南京に入りました。
    中国は,この時に大虐殺が行われたと主張しています。
    (「南京市略図」)南京戦では,市民は,ここ「安全区」に
    集まっていました。全部で20万人です。
    (「南京安全区国際委員会」)南京安全区国際委員会が,
    安全区の市民を管理しました。
    市民に食糧を配分するのも,国際委員会の役目でした。
    外国の新聞記者など,ここには多くの外国人も住んでいました。

【発問】さて,中国共産党の最大の指導者は毛沢東です。
    毛沢東は一生のうちに何回くらい南京事件について,
    日本を非難する発言をしたでしょうか。

【説明】0回です。「日本軍は包囲は多いが殲滅が少ない」と言ったことはあります。
    寧ろ,日本軍の甘さを指摘しているのですね。

【説明】12月10日,南京には20万人の人口がありました。
    12月13日に日本軍は南京を攻め落とします。

【発問】攻め落としてから4日後,17日の南京の人口はどうなったでしょうか。(変わらない)

【発問】その十日後の,12月27日の人口はどうなったでしょうか。(25万人に増えた)

(「当時の朝日新聞」)

【発問】当時の朝日新聞です。南京の写真が掲載されていますね。
    何と書いてありますか。(平和立ち帰る南京)

(「南京国際委員会」)

【説明】南京安全区国際委員会は,
    安全地帯の中で起こった事件を記録しました。
    1か月半で517件の事件が記録されています。

【発問】このうち,殺人事件は何件あったでしょうか。(26件で53人)

【説明】26件で53人殺害の記録が残っています。
    しかし,そのほとんどは人から聞いた話ばかりで,
    目撃証言は1件だけでした。
    それも,日本兵が不審者に質問しようとしたら,
    その不審者が逃げ出したので撃ったというもので,
    「合法殺害」と記録されています。

【説明】日本軍と戦った中国軍のリーダーです。
    中国軍は外国への宣伝を専門とする組織をつくり,
    外国人記者らを集め,記者会見を行いました。
    南京事件が起きたとされる1937年12月から10か月間に,
    300回の記者会見を行っています。

【発問】この間,「南京虐殺」について,何回報告があったでしょうか。(0回)

【説明】記者会見の場では,一度も報告はありませんでした。
    振り返ります。
    昭和12年,南京戦が行われた時,南京国際委員会の記録では疑わしいものも含めて,
    53人の殺人事件があったことになっています。
    その後,南京大学のベイツ教授が「4万人」の虐殺があったと書物に書きました。
    ベイツ教授は当時,中国の相談役だったことが明らかにされています。
    9年後,戦争が終えた後,極東国際軍事裁判で,突然
    「日本軍は中国の市民を20万人以上虐殺した」という証言がなされました。
    「30万人」という数字が出るのは,その25年後,昭和46年の朝日新聞が最初です。
    中国の教科書に「南京虐殺」が載るのは,その10年後の昭和56年です。

(「南京大虐殺記念館」)

【指示】今日のお勉強の感想を書いておきなさい。



【参考資料】◆藤岡信勝『5つの数字が語る「南京事件」の真実』自由主義史観研究会機関誌「歴史と教育」
       ◆ 鈴木正男『支那事変は日本の侵略戦争ではない』展転社
       ◆黄文雄『日中戦争 真実の歴史』徳間書店
       ◆佐藤優『日米開戦の真実』小学館
       ◆兵頭二十八・別宮暖朗『1937年の真実 日支戦争は日本の侵略ではない』 (別冊「正論」EXTRA.08所収)

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