第四回岡田幹彦講演会H19.09.01

岡 田 幹 彦  歴史講演会 主催:日本近代史に学ぶ会


維新回天の立役者 坂本龍馬


平成19年9月1日(土) 第四回講演会(会場:三条市農業体験センター)報告

よしのり Home
小林 義典

 

世の中の人はなんともいはば言え
      わが為すことは われのみぞ知る


 日本海軍のもとにして,株式会社の初めと言われる「海援隊」創設者
 一介の素浪人でありながら,大藩同士の薩長同盟の陰の立役者
 気宇壮大,機略縦横の人傑





 
次回講演は平成20年3月8日(土)に決定

 岡田先生が 勝海舟 を語ります

 会場は「三条市中央公民館」です

岡田幹彦氏の講演
会場を埋め尽くす参加者の皆様
中林代表の挨拶

      坂本龍馬は正真正銘「尊皇攘夷」の志士であった。 

 それは,龍馬の次の言葉を読めば分かる。 

 方今,天下の形勢を察するに,長防二州(長州藩)の地はついに異国の有に帰すべきか。
一旦,異国の有に帰する時は再びこれを挽回するは難しかるべし。されば今日は有志者の傍観して
止むべき時にあらず。宜しく談判を遂げ,外人をして内地を退去せしめ,専ら国内を整理するなり。
                                           (文久3年6月 龍馬29歳)

 龍馬をまるで平和主義の変革者として持て囃す
 今の日本の風潮を,
 岡田幹彦氏は嘆く



 龍馬は家族と故郷を捨て脱藩した。
 当時,脱藩は重罪である。
 死罪覚悟でなければ脱藩なぞ出来ない

 しかし,龍馬は藩を抜ける。
 何故か。
 土佐藩に止まっていては,
 到底祖国の危機を救えぬと判断したからである

 維新を代表する薩摩の西郷隆盛も,
 長州藩を牽引した高杉晋作も,
 「藩」という後ろ盾があったからこそ活躍出来た

 龍馬の後ろ盾は何だったか。
 幕府の重鎮,勝海舟の「弟子」ということだけである

 にもかかわらず維新回天の立役者となった。
 これは,龍馬という「人物」が素晴らしかったという
 ひとつの証左であろう

 「薩長同盟の締結は,龍馬の功績ではない」

 「龍馬は薩長の使いっ走りである」
 ......という論調があるらしい

 岡田幹彦氏は,これに一級資料を示して反論した

 表に御記しなされ候六条(薩長同盟の盟約)は,
 小(小松帯刀),西(西郷隆盛)両氏及び
 老兄(木戸孝允),龍等も御同席にて談論せし所にて
 毛(すこし)も相違これなき候。
 後来といえども決して変わり候ことこれなきは
 神明の知る所にござ候

 薩長同盟は初め口頭で盟約を結ぶ

 「文書の形で盟約を残しておかないと,
 長州へ帰った後,仲間に信じてもらえない」
 木戸孝允は,後日そう危惧した。
 急いで盟約の内容を文書化し,
 ここに書いてある事に嘘,偽りがないことを,
 坂本龍馬に頼んで裏書きしてもらう。
 それが,上記の文章である。
 (高知の坂本龍馬記念館に展示)


 使いっ走りの人物に
 「薩長同盟」の裏書きを頼んでも仕方無いだろう。
 第一級の人物であるからこそ,
 直々に懇願されたのである 


 

       参加者の感想

 後日記します。申し訳ございません

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