至誠通~ |
心に響いた言葉
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昭和二三年一月二八日,中国の南京郊外で三名の日本人が処刑された。敗戦後二年半経過した頃である。罪状は,南京において多くの中国人を日本刀で斬り殺したというもの。 処刑されたのは,向井敏明氏,野田毅(つよし)氏,田中軍吉氏の三名。「魂は大八州島(おおやしま)に帰ります」との言葉は,向井敏明氏の辞世にある。
辞世 我ハ天地神明ニ誓ヒ捕虜住民ヲ
向井敏明氏,野田毅氏が中国人を斬り殺したという証拠は一つしかない。昭和一二年末の『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)で報道された新聞記事である。紙面には『百人斬り‘超記録’』という見出しで,次のような報道文があった。 (野田「おいおれは百五だが,貴様は?」向井「お どちらが先に百人斬るか,競争したという。 向井,野田,両氏が百人斬りをしている現場を目撃した者は一人も居ない。記事を書いたとされる浅海一男記者は「同記事に記載されてある事実は,向井,野田両氏より聞きとって記事にしたもので,その現場を目撃したことはありません」と証言している。 昭和一二年当時,向井氏は歩兵砲小隊の小隊長であった。歩兵砲小隊長の任務は,敵の重火器を制圧することである。砲兵に「撃て」と司令を出すのが任務なのであるから,日本刀を振りかざして最前線で白兵戦を繰り広げることは,考えられない。 向井氏の直轄の隊長であった富山武雄氏は,次のことを証言している。 @毎日新聞紙上記載ノ如キ『百人斬競争』ノ事実ナシ
向井氏は一二月二日に左膝を撃たれ,離隊している。百人斬りを報じる記事は,一一月三〇日,一二月四日,六日,一三日と四回に分けて掲載。「一一日からいよいよ百五十人斬りがはじまつた」という記述もある。救護班収容中に,百五十人斬りはないだろう。 中国の侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館には,南京事件で三〇万人以上の中国人が虐殺されたとある。本当か。 昭和一二年,日本軍が南京に入った時,二〇万人の市民が「安全区」に集まっていたという。安全区の市民を管理したのが,南京安全区国際委員会。アメリカ人宣教師を中心とする一五名ほどによって組織された委員会で,市民に食糧を配分する役目もあり,人数をかなり正確に把握していたとされる。 一二月一〇日 南京の人口は二〇万人 日本軍が南京入りして,むしろ人口が増えている。虐殺現場に人が集まるだろうか。 一二月二一日 各兵団が城内から退出 翌年の三月二八日,中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に成立している。 南京安全区国際委員会は,安全区内で起こった事件を記録した。一か月半で五一七件の事件を記録。このうち,殺人事件は二六件で,五三人の殺人があったとされる。だが,人から聞いた話ばかりで目撃証言は一件だけ。日本兵が不審者に質問しようとしたら,その不審者が逃げ出したので撃ったというもので,「合法殺害」と記録されている。 中国共産党の偉大な指導者とされる毛沢東は,生涯のうちに何回,南京事件について日本を非難したか。〇である。「日本軍は包囲は多いが殲滅が少ない」と言ったことはあった。むしろ,日本軍の甘さを指摘している。 国民政府のリーダー,蒋介石は外国への宣伝組織をつくり,外国人記者らを集め,記者会見を行った。南京事件が起きたとされる昭和一二年一二月から十か月間に三百回の記者会見を行っている。この間,南京虐殺について何回報告があったか。一度もないという。 向井氏は戦後の混乱期の中で,家族とともに慎ましくも幸せな日々を過ごしていた。ある日,「進駐軍が向井敏明という人を探している」と警察から照会があった。当時,養子に入り北岡姓を名乗っていたので「姓も違うし,もし,本人でないなら,そう言ってくれればいい」と警察は暗に逃亡を勧めたという。向井氏は「僕は悪いことはしていないから,出頭します」と言い,家の外に一歩踏み出そうとした時,ふと立ち止まり「何だか,正義(五人兄弟の末っ子)が可愛すぎるのが気になるなア」と言ったという。これがご夫婦の最後の会話となった。 向井氏の魂は祖国日本に帰り,大空から今も我々を見守っていると信じる。
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