至誠通神

心に響いた言葉

神本利男(かもと としお)

縦横無尽に生きよ

よしのりホーム
更新: 09/09/2012 03:00:33

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 昭和十一年,一人の男が満洲での拳法の修練を終えようとしていた。恩師は臨終に際し,男に次の言葉を残す。

 「トシや,縦横無尽に生きよ」

 男の名は,神(か)本(もと)利(とし)男(お)。神本は恩師の言葉を胸にアジアで奇跡のような活躍を繰り広げた。

 明治三八年,神本は北海道開拓農民の子として生まれる。小柄だが小学四年頃から年長相手の相撲大会で優勝した。小学校高等科進学とともに島根県の本家に預けられ,中学校時代は柔道に没頭。「背負い投げの神本」と名を馳せた。拓殖大学に進学し,端艇(ボート)部に所属。「拓大に名コックス(舵手)神本あり」と東都で讃えられる存在となる。拓殖大学は明治後期,台湾協会学校として創立された学校で,海外に雄飛し異民族の中で地の塩として働く気概溢れる人材を育成した。神本は商学部支那語科を卒業する。

 卒業後は満洲赴任の内定を捨て,病床の父が待つ北海道へ帰郷し孝養を尽くした。間もなく父が逝去。満洲に渡り活躍する先輩や同期生の計らいで満洲の警務本庁へ赴任した。

 二七歳でハルピンに勤務した際,道(どう)教(きよう)の老師と運命的な出会いをする。類(たぐ)い稀(まれ)なる素質を見抜かれ,総本山の無(む)量(りよう)観(かん)に招かれた。道教は当時の中国民衆の精神的な生活規範である。道教の教えを実践するための必須科目が「武当派拳法」であり,神本は三年間,漢方医術と薬草,冶金術,幻術,天文算術,予言と観相,武当派拳法の修練を積んだ。

 老師の名は張(ちよう)道(どう)順(じゆん)。広大な中国全土の道教僧や拳法修行者から「千山(せんざん)無量観に張道順老師あり」と畏敬された。神本を天与の素質者と見込んで愛弟子にし,己(おのれ)の全てを授けようと寸暇も休ませず鍛えたという。

 猛烈な修練の例を挙げる。指先で逆立ちして指の数を減らしていき,最終的に人差し指一本で逆立ちして微動だにしない。結(けつ)跏(か)趺(ふ)坐(ざ)して両手の親指と人差し指で体を支え呼吸を整えて瞑想し自我を捨てる。ろうそくの炎に向かい掌や指先から気を放射して炎を消す。…心血振り絞った修練が昼夜の別なく続いた。

 三年の歳月が過ぎる頃,老師が臨終を迎える。枕元へ座した神本へ「大切なことは,どう死ぬかではなく,どう生きるかである」「この乱れた世の中で,縦横無尽に生きよ」と言い残した。神本は直系道門一九代として山を下りる。

 国境警備隊員として満洲の琿春(こんしゆん)へ赴任した時には三十歳になっていた。全満洲の道教社会では情報が迅速に伝達する。「張道順老師の秘蔵弟子来たる!」満人警務官やその家族,村落の人々は憧れの眼差しで迎えた。二年後,ソ連極東内務人民委員会(GPU)長官のリュシコフ大将が満洲へ越境したところを捕縛。「満洲に拓大出の豪傑神本利男あり」と大型活字で新聞報道され,多くの日本人の耳(じ)目(もく)を集めた。米国亡命を望むリュシコフ大将の世話役として帰国した神本は,ソ連側諜(ちよう)報(ほう)機関による暗殺行動をことごとく予知。全ての刺(し)客(かく)を一人で撃破する神業(かみわざ)を見せた。

 陸軍参謀本部はこれを見逃さず,三三歳になった神本を中野学校(秘密戦の教育と訓練をする学校)へ入れる。神本は六か月の研鑽を修めた後,満洲に戻った。

 三五歳の時,東京の陸軍参謀本部から「急ぎ上京を」との電報が届く。「もう満洲には帰って来られない」と直感し身辺整理。その夜の列車に飛び乗った。東京でバンコク行きを懇願される。マラヤに潜入し,マレーのハリマオ(虎)と呼ばれる日本人を味方につけ,英軍の後方を攪(かく)乱(らん)をするという役目である。

 神本はまずバンコク南大寺の曹(そう)和(お)尚(しよう)を訪ねた。曹はバンコク道教社会の長老であり,表裏両面の社会に勢力を張り巡らしていた。神本は曹を通して裏社会のボスに話をつけ,マレーのハリマオこと谷(たに)豊(ゆたか)の居場所を探させる。谷豊は南タイの監獄に収監されていた。監獄の看守長に裏社会のボスから命令が届き,谷豊は釈放される。「俺は日本人じゃない。マレイ人だ」と心を閉ざす谷を神本は燃えるような眸(ひとみ)で説得した。「このマラヤをマレイ人に戻したい。力を貸してくれないか」…谷は神本の至誠に打たれた。

 谷は十年ほど前にマラヤで妹を中国人に惨(ざん)殺(さつ)されている。復(ふく)讐(しゆう)のためアリーと名乗り,三百人の地下組織をもつ義(ぎ)賊(ぞく)となる。マラヤの支配者である英国人や中国人を襲うが人は殺(あや)めない。奪った金品は貧しいマラヤ人に与えたと伝えられる。アリーのもとには特殊技術をもつ者が続々と集まった。シラット(マレイ空手)や吹き矢,カパット(手斧)投げの名手,爆薬扱いの名人などである。

 昭和一六年,神本と谷率いるハリマオ班は,英軍の妨害工作を開始。英軍が構築し始めたジェトラ陣地の労務者に混じり,陣地構築図と周辺の地形図を作成する。日本軍を水際で殲滅するという英軍の作戦計画もつかんだ。

 一二月八日未明,日本軍はマレー半島の東海岸に上陸。南端のシンガポールを目指した。大東亜戦争の始まりである。「日本軍を三か月は食い止められる」と喧(けん)伝(でん)されたジェトラ陣地を二日間で撃破。英軍は敗走を重ねる。神本らは敗走する英軍の先回りをし,守備状況を偵(てい)察(さつ)。背後地へ潜入し通信の電話線を切り弾薬庫を爆破した。併(へい)行(こう)してマレイ人住民を日本軍に協力するよう説得。日本軍はどこでもマレイ人住民の歓迎を受けた。谷はマラリヤ罹(り)患(かん)を隠し獅(し)子(し)奮(ふん)迅(じん)の活躍をした。二月一五日英軍降伏。谷はシンガポール病院に入院するが,間もなく息を引き取る。享年三一歳。帝国陸軍F機関の藤原岩市は直ちに谷豊を軍属として登録。谷は靖國神社に祀(まつ)られた。

 神本はビルマの光機関に転属し,シャン族青年部隊を育成した。インパール作戦に際しては食料や弾薬,医療薬品を最前線へ補給する一方,英軍のインド人将兵の離脱工作に挺(てい)身(しん)した。しかし,マラリヤの猛威は神本をも襲う。ビルマに止(とど)まりたいという神本を藤原岩市は日本へ帰国させようと拝み倒し,根負けした神本は日本へ向かう潜水艦に搭乗するが,米軍に撃沈され散華する。享年三九歳。知らせを受けた満洲の千山無量観では道教の葬儀が厳かに行われたという。

 生前,神本は次のように夢を語った。

「私の夢はね。ネパールやチベットを経て,或いはインドからアフガニスタンを通過して中央アジアに行くことです。西洋の薄汚れた物質文明に汚染されていない素朴な人達と生き死にをともにしたいとね」

 少年時代にハリマオのもとで活躍したラーマン長老は平成八年に逝去したが,晩年次のように語っている。

「トシさんは亡くなっても,その教えは私の胸に生きており教えの通りに独立しました」

 神本は中央アジアまでは行けなかったが,出会う人をことごとく魅了しながら,動乱の世にアジア独立のため,縦横無尽に生きた。

 

 

 


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