心に響いた言葉

吉田松陰

至誠にして動かざるものは　いまだこれあらざるなり

よしのりホーム

　数年前，友人と吉田松陰の話をしている時に，初めてこの言葉を聞いた。一瞬息が止まるような衝撃を受けたことを覚えている。もちろん，言葉の意味は即座には分からなかったのだが，その言葉の響きに打たれたのである。

　至誠而不動者未之有也

　この言葉は，吉田松陰が幕府による取調べのために江戸へ移送されることになったとき，故郷の萩(はぎ)に残した言葉である。「至誠(真心)をもって人に対すれば動かない者はない」…至誠の人であり魂の教育者であった吉田松陰が発してこそ力ある言葉である。

　松陰の至誠は，周囲の者を惹(ひ)きつけて止まない。

　長州藩の藩校，明(めい)倫(りん)館(かん)において二十歳そこそこで師範を務めていた時には，藩の永(えい)代(だい)家(が)老(ろう)である益(ます)田(だ)弾(だん)正(じよう)や剣(けん)豪(ごう)で知られた桂小五郎(木(き)戸(ど)孝(たか)允(よし))が門(もん)弟(てい)だった。藩主である毛(もう)利(り)敬(たか)親(ちか)は「儒(じゆ)者(しや)の講義はありきたりの言葉ばかりが多く眠気を催(もよお)させるが，松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と言って自ら松陰の門人となっている。

　黒船による渡海(とかい)に失敗し自首した際には，獄卒(ごくそつ)(獄囚(ごくしゆう)を取り扱う役人)に国史や人道を熱く説いたが，涙を流して聞く者もあったという。下田(しもだ)獄から江戸へ移送される道中も，夜に不寝番(ふしんばん)をしている村人に同じように説いたところ，松陰の後を追おうとする青年まで出た。松陰はこの時，肩書(かたがき)を失った囚人(しゆうじん)である。村々の青年がその囚人の言(げん)に従おうというのだから，凄いとしか言いようがない。

　江戸の奉行所では毅然(きぜん)として憂国(ゆうこく)の思いを述べて取り調べの役人を感嘆せしめ，実家にて蟄(ちつ)居(きよ)というごく軽い裁決(さいけつ)となった。国禁(こつきん)を犯したのであるから，本来であれば死罪を免(まぬか)れなかったはずである。

　かくすればかくなるものと知りながら
　やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)

　正しいと信じたことを死を覚悟しても断固(だんこ)としてやらずにはおれない。これが日本人の心だという松陰の至誠。気魄に圧倒される。

　松陰とその弟子である金子重之助(しげのすけ)の渡海失敗の顛(てん)末(まつ)は，海外でも報じられたらしい。当時フランスで松陰の渡海失敗の新聞記事を読んだＡ・ヴィリオン少年は，明治維新後に宣教師として来日し，新聞で読んだ松陰を思い，「この立派なサムライがアメリカに渡っていれば，日本にとってどれほどすぐれた愛国者になったことか」と嘆息(たんそく)したという。

　長州，萩の野山獄(のやまごく)へ入れられると，そこではずっと年上の囚人が最年少である松陰とともに学んだ。野山獄の囚人のほとんどは，出獄の見込みのない者ばかりであったという。生涯を獄で送るのであるから，学ぶ気が失せてしまいかねないが，松陰の至誠は絶望の淵(ふち)に沈むばかりであった囚人を激変させた。否(いな)，神の子人間に宿る神(しん)性(せい)を引き出したと言うべきか。野山獄の司(し)獄(ごく)(看(かん)守(しゆ)長(ちよう))福川犀(さい)之(の)助(すけ)は，自分の弟とともに廊下で正座して，松陰の講義に聞き入ったという。もはや獄ではない。野山塾である。

　翌年，松陰は野山獄を出て，実家の三畳間に謹(きん)慎(しん)となった。家族は松陰を元気づけようと，松陰の講義を聞くが，次第に近所の若者も講義を聞きにやって来るようになる。藩校「明倫館」の教育に飽き足らない俊英をはじめ，身分を問わず志ある人物が多数集(つど)うことになった。三畳間では手狭(てぜま)となり庭の物置小屋に畳を敷く。これが，幕末の志士を多数生み出す松(しよう)下(か)村(そん)塾(じゆく)となった。松陰は藩内で危険人物視されていたが，それでもなお親の反対を退けても青年は松下村塾の門をくぐった。あの暴れ牛と呼ばれた高杉晋作も，松陰に心酔し師と仰いだ。松陰は塾生一人一人の短所を問題にせず長所に焦点を当て，これを最大限に伸ばす教育者であった。「生命の教育」の達人である。

　安政の大獄(たいごく)が始まった安政五年の暮れ，松陰は再び野山獄に入れられた。幕府の老中を誅殺(ちゆうさつ)しようとする計画が長州藩の知るところとなり，幕府を恐れる藩の役人が松陰の自由を奪ったのである。塾生との別れに際して記した詩の一行。

　松下陋村(ろうそん)なりといえども
　誓つて神国の幹(かん)とならん

「自分はこれから牢に入るが，この小さな松本村から日本の国の柱となるような人が必ず出るのだ」という気概(きがい)。塾生は皆，慟哭(どうこく)したという。松陰が直接塾生に教えたのはわずか二年半であったが，これが礎(いしずえ)となり長州藩を明治維新の源流へと押し上げていくのである。松陰は何も手を下していない。松陰に感化され神性を引き出された青年が，命を賭(と)して駆け回ったのである。このような歴史が，日本以外にあるだろうか。

　野山獄で正月を迎えた松陰は，幕府の命(めい)で再度江戸送りとなった。松陰は死を覚悟する。その時に残したのが冒頭の言葉である。野山獄の司獄，福川犀(さい)之(の)助(すけ)は江戸への移送を半日遅らせ，松陰を家族のもとに帰した。規則違反である。犀之助は職を賭(と)していた。

　実家は家族の他，知らせを聞いて駆け付けた門人でひしめき合った。松陰が身を清めるために入浴している時，母，滝(たき)が風呂場へ来て松陰の痩(や)せた背中を流した。風呂場は母子が唯一水入らずで話が出来る場であった。

　滝は語りかけた。

寅次郎(とらじろう)(松陰の名)よ，今一度江戸から無事帰って機嫌(きげん)のよい顔を見せておくれ

必ず無事帰ってお目にかかります。ご心配ご無用でございます

　松陰はそう答えたという。

　身はたとひ武(む)蔵(さし)の野(の)邊(べ)に朽(く)ちぬとも
　留(とど)め置(お)かまし大和魂

　安政六年，松陰は評(ひよう)定(じよう)所(しよ)で断罪(だんざい)書を聞く。「国家の御為(おんため)と申すが公儀(こうぎ)(幕府)を憚(はばか)らず不敬(ふけい)の至り。死罪申付ける」

　松陰は静かに

畏(かしこ)まりました

とこたえ，潜(くぐ)り戸から出る時，辞世(じせい)を朗唱(ろうしよう)した。

　吾(われ)今(いま)国(くに)の為(ため)に死(し)す
　死して君親(くんしん)に負(そむ)かず
　悠々(ゆうゆう)たり天地(てんち)の事(こと)
　鑑照(かんしよう)明神(めいしん)に在(あ)り

　警護(けいご)人(にん)は立ちすくみ，奉行(ぶぎよう)は皆，襟(えり)を正して聞き入ったという。刑はその日のうちに執(しつ)行(こう)される。松陰は獄吏(ごくり)を労(ねぎら)い，立ち会いの与力(よりき)に「ご苦労様」と声をかけて座り，従容(しようよう)として首を斬られた。首斬り浅右衛門こと山田浅右衛門は「最も堂々とし天晴(あつぱれ)でございました」と周囲に語ったと伝えられる。

　同時刻，萩では松陰の父母が寝入っていたが，突然目が覚めた。父，百(ゆ)合(り)之(の)助(すけ)は「今，私は首を斬られた夢を見たが，誠によい心地であった」と滝に言った。滝も言う。「私もまた寅次郎が只今江戸から帰った夢を見ましたが，非常によい血色でありました」…松陰の魂は数千里を超え萩に帰った。後に父はこう語ったという。

　ああ児(じ)，一死(いつし)君国(くんこく)に報(むく)いたり
　真(しん)にその平生(へいぜい)に負(そむ)かず

　絶唱である。松陰の父母もまた，至誠の人であった。