心に響いた言葉

乃木希典

日本はどこにある？

よしのりホーム

　およそ百年ほど前の話である。日露戦争を勝利に導いた将軍，乃木(のぎ)希典(まれすけ)大将が学習院院長として最後のお別れの講義で，小学生に向けて問うた。

「日本はどこにある？」

　生徒は「東洋の東側です」「緯度何度」などと答えた。

　乃木大将は
「それぞれに間違いない」
と受けた後，自分の胸を叩いて，
「本当はここにあるんだよ」
と語りかけたという。…慈しみに満ちた乃木大将のお顔が目に浮かぶ，心に残るエピソードである。

　明治の「日本」は大国ロシアと戦った。なぜ戦わねばならなかったのか。

　明治期，日本を取り囲む国際情勢は緊迫していた。

　明治一九年　イギリス→ビルマを征服
　明治二〇年　フランス→インドシナ征服
　明治二一年　イギリス→マレー半島支配
　明治二六年　フランス→ラオスを支配
　明治三一年　アメリカ→フィリピン征服
　　　　　　　アメリカ→ハワイ征服
　　　　　　　ロシア　→旅順・大連を租借
　明治三三年　ロシア　→満洲占領
　　　　　　　ロシア　→韓国侵略

　地図を見ると，朝鮮半島は大陸から日本に向けた短刀のように見える。満洲や韓国がロシアの支配下に入ったら，次に隷属化(れいぞくか)させられるのは日本である。

　明治三七年二月四日，日本は開戦を決意した。ロシアの国家予算は日本の一〇倍。陸軍兵力も一〇倍。しかし，戦わずに済ませられる相手ではなかった。

　乃木大将は，旅順(りよじゆん)の要塞(ようさい)を攻めた。「旅順はいかなる敵を引き受けても断じて三年は支えられる」と当時のロシア陸軍大臣・総司令官のクロパトキンは述べている。難攻不落の近代要塞。乃木大将率いる第三軍は戦力の圧倒的劣勢をはねのけ，予想以上の大苦戦を強いられながらも明治三八年一月二日，ついに旅順要塞を落とす。実に半年間に及ぶ死闘であった。この報がロシア本国に知らされるや，乃木大将及び第三軍は鬼神(きじん)の如(ごと)く恐れられたという。

　旅順陥落(かんらく)後，乃木大将は急ぎ奉天(ほうてん)へ向かう。奉天では，日本軍二五万，ロシア軍三七万が激突した。強固な野戦陣地を備えたロシア軍は優勢であったが，乃木大将がロシア軍の退路を断つような猛進撃をしてから旗色が変わる。敵将クロパトキンは全軍を退却させるが，日本軍は追撃。乃木軍の一大奮戦による逆転勝利となった。

　旅順陥落の蔭(かげ)に乃木大将夫人の命懸けの祈りがあった。

「神威をもって旅順を陥落させたまえ」

　静子夫人は夜汽車に乗って伊勢へ向かい，翌朝，頭から何杯も水をかぶり身を清めた後，伊勢神宮において必死の祈りを捧げた。しばらくすると静子夫人の耳に「汝(なんじ)の希望は叶(かな)えてやるが，最愛の二子(にし)は取上げるぞ」との言葉が届いたという。「旅順は落としてやるが，軍人である汝の二人の息子は戦死させるぞ」という声である。静子夫人は次のように哀願(あいがん)した。

「二子のみでなく私ども夫婦の命も差し上げ　ます。どうぞ旅順だけはとらせて下さいませ」

　長男の勝典(かつすけ)，次男の保典(やすすけ)ともに旅順で戦死。寺内陸軍大臣が東京赤坂の乃木邸(てい)を訪れ報告した際，

「よくぞ死んでくれました。これで世間の母人方に申訳が立ちます」

と毅然(きぜん)と答えたという。

　乃木大将は，旅順で息子の死を部下から聞いた時，

「よく戦死してくれた。これで世間に申訳が　立つ。よく死んでくれた」

と言った。東京と旅順，夫婦離れていても命懸けの思いは同じであった。

　ロシアに勝利し凱旋(がいせん)した乃木大将を日本国民は狂喜して迎える。乃木大将は多くの将兵を戦死させてしまった自責の念から，歓迎会は全て断った。

　明治天皇は乃木大将の声涙(せいるい)下(くだ)る復命書の奉読(ほうどく)を聞き「これは自決するな」とお察しになり，

「朕(ちん)が死ぬまでは死んではいかん」

とお諭(さと)しになった。

　その後，乃木大将は戦没兵士の家族，負傷した兵士たちへの償(つぐな)いの日々を送っている。

　巣鴨にある廃兵院(はいへいいん)には，日露戦争で負傷し重い障害を残した兵士約五十人が入院。乃木大将は月に一，二度，手土産を持っては廃兵院を訪れ，負傷兵士たちを感激させた。

　また，上腕を切断した兵士のために，自ら設計に参加した乃木式義手を作り配っている。この義手で書いたという負傷兵の礼状が乃木大将宛てに届いた時は，大変喜んだという。

　さらに，明治天皇からいただいた恩賜金(おんしきん)で，恩賜(おんし)の金時計と同じものを七つ作らせ，部下に渡している。失明した部下には音が鳴る特別細工の金時計を渡した。このようにして恩賜金は全て部下に渡してしまったのである。

　後に私用で長野へ出かけた際，所在が知れてあちこちから声がかかり，長野師範学校で講演するはめになった。長野出身の兵士は第一師団に属し，乃木大将の指揮下で多くの戦死者を出していた。講演の出番になっても登壇せず，乃木大将はその場に立ったまま，

「諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」

と述べただけではらはらと涙を落とし，そのまま何も言えなくなった。講演を心待ちにした聴衆もまた胸をつまらせ，涙を流したという。

　明治四〇年，明治天皇は乃木大将を学習院の院長に推薦し，次の御製を賜(たまわ)った。

　いさをある 人を教(おしへ)の 親にして
　　 おほしたてなむ 大和撫子(やまとなでしこ)

　乃木大将は生徒と共に寄宿舎に入り寝食を共にし，生徒に親しく声をかけ，敬愛された。

　迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)親王（後の昭和天皇）が学習院に入学されると，乃木大将は勤勉と質素を旨としてその教育に努力。後に昭和天皇は，「思い出深い方は？」という記者の質問に，

「私の人格形成に最も影響のあったのは乃木希典学習院長であった」

とお答えになっている。

　明治四五年七月三〇日，明治天皇が崩御され，乃木大将は身辺整理を始める。大喪儀(たいそうぎ)の日，乃木大将は赤坂の自宅で自決された。静子夫人も胸を短刀で突いて自決。「二子のみでなく私ども夫婦の命も差し上げます」と天照大神に祈られた心願が思い起こされる。

　当時の新聞「萬(よろず)朝報(ちようほう)」の論説主幹である黒岩(くろいわ)涙香(るいこう)は，「彼の自殺は千年万年に必ずや大なる精神的影響を国民に及ぼすならん。吾人(ごじん)は誠心誠意を以(もつ)て彼に感謝す」と述べ，次の追悼(ついとう)の和歌を詠んだ。

今日までは　すぐれし人と　思ひしに　人と生まれし　神にぞありける

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　【出典】千葉ひろ子著『乃木希典』(新教育者連盟)
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　岡田幹彦著『乃木希典-高貴なる明治』(展転社)