至誠通~

心に響いた言葉

昭和天皇陛下

終戦の詔勅 朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス

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朕(チン)茲(ココ)ニ米國(ベイコク)及(オヨビ)英國(エイコク)ニ対シテ戰(タタカヒ)ヲ宣(セン)ス

 昭和一六年一二月八日、「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」が発せられる。七十年前のこの日、大東亜戦争が始まった。

 詔書は長文のためここに引用できないが、大日本帝国が欧米の世界支配に対し決然として起つ雄々しさがひしひしと伝わってくる。

 この日のことを彫刻家の高村光太郎は詩に書いている。

 「十二月八日」  高村光太郎

 記憶せよ、十二月八日。
 この日世界の歴史あらたまる。
 アングロサクソンの主権、
 この日東亜の陸と海とに否定さる。
 否定するものは彼等のジャパン、
 眇(びよう)たる東海の国にして
 そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつかみ)なり。
 世界の富を壟断(ろうだん)するもの、
 強豪英米一族の力、
 われらの国に於(おい)て否定さる。
 われらの否定は義による。
 東亜を東亜にかへせといふのみ。
 彼等の搾取(さくしゆ)に隣邦(りんぽう)ことごとく痩(や)せたり。
 われらまさにその爪牙(そうが)を摧(くだ)かんとす。
 われら自らの力を養ひてひとたび起つ。
 老弱男女みな兵なり。
 大敵(たいてき)非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。
 世界の歴史を両断する
 十二月八日を記憶せよ。


 戦後の教科書では、日本のアジア侵略が太平洋戦争を招いたように記されている。だが、本当にそうなのか。世界中に植民地支配を広げ、アジアに迫っていたのは、むしろ欧米の方ではなかったか。

 アメリカの東洋学者で戦前、戦後に来日し、連合国占領軍最高司令部の諮問機関のメンバーでもあったヘレン・ミアーズ女史は、昭和二三年に出版した著書『アメリカの鏡・日本』で次のように書いている。

 今日私たちがいっているように、ソ連が「世界の脅威」であり、日本を支援したかつての米英両国の政策担当者が正しかったとすれば、ソ連を抑止し、「混乱した」地域に秩序をもたらし、中国における「共産主義の脅威」と戦う行動拠点を確保するために、満洲を緩衝国家にしようとした日本を支援しなかった一九三一年以降の米英両国の政策担当者は、犯罪的に無能だったことになる。そして、対日関係をパールハーバーとシンガポールまで悪化させ、その結果、私たちの生命と財産ばかりでなく、極東の同盟国を失ってしまった政策担当者の無能ぶりは、犯罪をはるかに超えたものであるというほかない。    
         (ヘレン・ミアーズ『アメリカの鏡・日本』メディアファクトリー 四一〇頁)


 日本がアジア大陸に進出したのは、「共産主義の脅威」を排除するためであったと述べているのである。

 アジアの民族が力を合わせなければ欧米の植民地支配を打ち砕くことはできないと日本は考えていた。しかし、欧米は蒋介石(しようかいせき)率いる国民党に、そしてソ連は中国共産党に膨大な軍事援助を続ける。大東亜共栄圏を築こうとする日本の構想はことごとく妨げられ、中国大陸は安定するどころかますます混迷を極めた。

 大東亜戦争が始まる前に、ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていた。大統領選で「絶対に参戦しない」と公約して当選したアメリカのルーズベルト大統領は、その公約を破らずに参戦するため、日本を挑発し日本から戦端を開かせるという手段をとる。日本への石油禁輸やハル・ノートによる中国大陸からの撤退要求などによって窮地に追い詰めた。そこで、大日本帝国は決然起ち上がったのである。

 大東亜戦争で、日本は内地の二百以上の都市が空襲され、原子爆弾を二つ落とされた。何十万人もの民間人が殺戮され終戦を迎える。被害があまりにも膨大で壊滅的だったため、終戦後この戦いは馬鹿げていたと考えられるようになったが、果たしてそうなのか。

 米ウイリアムズ大学のジェームズ・B・ウッド教授は、著書『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』で次のように記している。因みにウッド教授はとくに親日というわけではない。太平洋戦争を冷静かつ本格的に分析している歴史学者である。

 連合国軍相手の戦争は、日本にとって正しい時期に おける正しい戦争であったと主張する。(中略)
 アジアにおける日本の立場に対するアメリカの敵意は明白であり、振り返ってみても、アメリカが日本と戦争するつもりであったとの結論は、アメリカの意図を読み違えたものでは決してない。日本の資源供給の道は、帝国本土以外では全く閉ざされており、予備の資源もごく限られていた。たとえABCD各国と戦争状態に入らないで和平を保ったとしても、このような窮状を正常に戻すことの見込みが全く無かった。 
                      (『「太平洋戦争」は無謀な戦争だったのか』WAC)


 昭和一七年三月、東条首相は「今後とるべき戦争指導の大綱」を天皇に上奏した。そこには、インドネシアの石油資源を確保し、自給自足の長期不敗の態勢を作り、アメリカの戦意を喪失させ、機を見て講和に持ち込む構想が記されていた。これならば日本の壊滅的な敗戦はなかったとウッド教授は主張している。

 実際には、日本軍は本土から数千キロメートルも離れた所まで戦線を拡大し、ミッドウェー海戦やガダルカナル島の戦いで痛手を被り劣勢に回ってしまった。わが国は連合軍に降伏することになるが、世界中の多くの国々はその後欧米の旧宗主国と戦い、独立を勝ち取る。戦後の独立国の数は飛躍的に伸びることになった。

 大東亜戦争の授業の最後にはいつも「一二月八日」という題の詩を子供達に伝えている。

 十二月八日

 日本のおかげでアジア諸国はみな独立した
 日本と言うお母さんは難産して母胎をそこねたが
 生まれた子供たちはすくすくと育っている
 今日東南アジア諸国民が米英と対等に話ができるのは
 一体誰のおかげであるか
 それは身を殺して仁を為した日本と言う
 お母さんがあったためである
 十二月八日は我々に
 この重大な思想を示してくれたお母さんが
 一身を賭して重大な決心をされた日である
 我々は、この日を忘れてはならない

                    ククリット・プラモード(タイ元首相)

 


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