心に響いた言葉

楠木正行(くすのき まさつら)

返らじとかねて思へば梓弓　なき数にいる名をぞとどむる

よしのりホーム

　返らじとかねて思へば梓弓(あずさゆみ)　なき数にいる名をぞとどむる

　鎌倉幕府を倒そうとする後醍醐天皇を助け，建武の親政の立役者となった楠木正成。その息子，楠木正行の辞世である。

　正行は十一歳の時に父正成と死別する。必ず負けると分かっていた足利高氏との戦(いくさ)に赴く父から「お前は楠木一族を率い，身命を賭して帝(みかど)にお仕えせよ」と厳命され，家に戻された。これが今生の別れとなる。

　桜井の宿で父正成と別れて二週間後，父の首が楠木家に届いた。正行は悲しみと怒りが一度に噴き上がり自害しようとするが，母に止められる。正成の重臣である恩地左近(おんちさこん)に「一番お辛(つら)いのはそなたの母君であるのに，自害しようとされるのは母君を見捨てることになりましょう」と指摘され，我に返った。心から謝る正行の肩を，母は強く抱きしめ，はらはらと涙を流したという。その時，十一歳の正行は「楠木一族を率いて帝にお仕えせよ」という父の厳命を深く受け止めたのである。

　二十二歳の夏に藤井寺の合戦を迎える。幕府側の兵力三千。迎える楠木軍は精鋭七百。数の上での劣勢は父正成の時と変わらないが，謀(はかりごと)の切れの良さもまた父同様であった。夜襲と同時に周りに篝火(かがりび)を灯(とも)し，楠木軍を大軍と思わせる作戦は見事成功し，幕府軍は総崩れとなって京都へ逃げ帰った。

　ところが，正行は戦に勝ちはしたが，ふさぎ込んでしまう。戦に勝てば勝つほど戦は大きくなる。争いは争いを生み，帝が願われる世からますますかけ離れる…。そう悩み苦しんだのである。答えを探すため，父正成と親しかった寺を訪ねた。そこで僧に「世の中には守らねばならぬものがあり，戦わねばならぬこともある」と諭され，自分の使命に改めて気付かされる。正統な帝に中心帰一する世の実現に力を尽くすという「義の志」を立てたのである。

　その年の秋，正行は後村上天皇に仕える女性，弁内侍(べんのないし)と出会い，ともに尊び慕い合う。だが，正行はいつ戦で命を落とすか分からぬ身の上。結婚は辞退した。弁内侍への文(ふみ)に，次の和歌を認(したた)めた。

　とても世に永らふべくもあらぬ身の　かりのちぎりをいかで結ばん

　弁内侍は正行への思いをますます強くし，手紙を抱きしめて涙をこぼした。

　同じ年の十一月，瓜生野(うりゆうの)の戦いを迎える。幕府は一万の兵力を集めた。対する楠木軍は二千。敵の数五倍であるが，この時の謀も凄い。幕府軍を分散させた後，囮(おとり)を使って敵の本隊を誘(おび)き出し，挟み撃ちをするというものである。この作戦も成功し，幕府軍は怒濤(どとう)の勢いで退散した。

　幕府軍は京都に退却する際「渡辺橋」を渡らねばならない。一万の大軍が一本の橋に殺到するのである。多くの者が川に落ちて溺れた。冬の川の冷たさは並大抵ではない。正行は楠木軍を止(とど)め，次のように命じたという。「戦の勝敗はついた。これから全軍で溺れる兵を救出する。けが人は手当せよ」…見事な武士道の発露。こうした美談は余り海外では耳にしない。明治期，日本が国際赤十字に加盟する際，正行のこの行為が高く評価されたという。

　同じ年の十二月，幕府は五万の兵を集めた。そのうち直接戦うのは高師直(こうのもろなお)率いる四万。残り一万は正行が留守となった河内を狙う。幕府軍に対する楠木軍はおよそ二千。そのうち出陣する兵は一千。幕府の大軍から帝をお守りする兵力も残す必要があったからである。敵の数四十倍。二度と帰れぬ戦である。正行は吉野の御所へ出陣の挨拶に行き，後村上天皇より直々の御言葉を賜る。帝に暇乞いをし御所の門まで来た時，そこには弁内侍が立っていた。

「お帰りをお待ち申し上げております」

と内侍。正行は愛おしさにこみ上げる涙を歯を食いしばって堪えたという。これが最後の別れとなった。

　御所を後にした正行と武将らは如意輪寺という寺に寄る。正行は出陣する武将の名前を書いた紙と，髪を切って紙に包んだものを如意輪寺に納め，その後お堂の板扉に和歌を記した。それが冒頭に示した辞世である。「放たれた矢の様に，再び帰ることはないと心に決めた出陣なので，それらの者達の名前をここに書き記してゆく」…この言葉の余りの立派さ，厳かさに目頭が熱くなる。口ずさむ度に胸震える思いがする。

　年が明けて一月，幕府軍との戦が始まった。四条畷(しじようなわて)の合戦である。幕府軍の第一陣は，楠木軍の見事な集団戦法に蹴散らされた。第二陣の武将は楠木軍の真っ直ぐな戦い振りに心打たれ「幕府軍総大将，高師直の所まで正行を行き着かせたい」と，第二陣全軍を退却させた。武士の情けである。

　第三陣は地方武士の大軍であった。その数七千。続々と楠木軍に迫ったその時，別の方角から百人ほどの兵が正行のもとに走ってきて跪(ひざまづ)いた。瓜生野の戦いの時に渡辺橋で助けられた敵兵達である。正行の恩に報いようと，命を捧げる機会を待っていたのである。この百人を加えた楠木軍の勢いはすさまじく，第二陣の大軍も次第に逃げ始め，勢い総大将の高師直の本隊に突っ込んでいく形になった。

　師直は影武者まで仕立てるが，正行はじりじりと追い詰める。師直まであと五十メートルという至近距離まで迫った。しかし，草むらに隠れた敵から全身に矢を射られ，なお一歩一歩師直に近づくも足をも射られ動けなくなり，最後の力を振り絞って弟の正時と差し違えるのである。享年二十三歳。若くして名将と讃えられた楠木正行は，比類なき尊皇と孝心の生涯を貫いた。

　正行の死を知った弁内侍は髪をおろして尼となり，一生正行の菩提を弔って過ごしたという。弁内侍が自分の髪を埋めた所は，いつしか「至情塚」と呼ばれるようになった。この至情塚は今もなお如意輪寺の境内に残されている。

　大阪府にある四条畷神社は，明治二十三年に創建された。主祭神は楠木正行。一族の将士二十四人が配祀されている。付近には楠公(なんこう)と名の付く地名が多く，楠木正成，正行父子は地元の人々から「楠公さん」と呼ばれ慕われているという。

　室町幕府の第二代将軍，足利義詮(よしあきら)(高氏の実弟)は，敵側ではあったが楠木正行を心から尊敬していた。京都の嵯峨野に宝筐院(ほうきよういん)という紅葉の美しいお寺がある。そこには楠木正行と足利義詮の墓が仲良く並んでいる。義詮は正行の首塚の隣に自分の墓をつくるよう遺言したのである。

　足利家にとって，正行はまさに目の上のたんこぶであり，恐るべき強敵であった。しかし恨みを残すのでなく，寧ろ正行の忠勇武烈の生涯に惹かれて隣に墓をつくらせるところに，日本の武士道を感じさせられる。

　本稿は後藤久子氏の著書「楠木正成」「楠木正行」(財団法人新教育者連盟)を参考にして書いた。涙なしには読めない本である。