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ペリリュー島の戦い


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TOSS SANJO/小林 義典
大東亜戦争終盤,連合軍の艦隊がパラオに迫った

「日本軍とともに戦いたい」とする島民の願いを
日本軍守備隊長 中川州男大佐
(戦死後陸軍中将)は拒絶する

そこには,島民を思う帝国軍人の思いがあった…


Webワーク(授業資料:1.25MB)

                   

【発問】美しい島。日本だと思う人?

【説明】パラオ共和国です。第一次世界大戦の後,
一時,日本が治めていたこともありました。
その頃,日本はパラオに役所を置き,稲作や野菜,果実の栽培を教えました。
また,缶詰やビールなどの工場を建設。道路をつくり,橋をかけ,
電話を引き,学校,病院などもつくりました。
パラオ人は文字をもっていなかったので,
小学校では日本の教科書をつかって日本語教育をしました。
小学校一年生で九九を暗唱できたそうです。

【説明】1941年太平洋戦争が始まり,パラオのペリリュー島にもアメリカ軍が迫りました。
ペリリュー島の住民はおよそ900人。
日本軍の隊長に次のように言ってお願いしました。

「自分達も一緒に戦わせてほしい」

【発問】隊長は何と答えたでしょうか。(列指名)

 「帝國軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

【発問】隊長の言葉をどう思いますか。ノートに書きなさい。

【説明】村人たちは,仲間だと思っていた日本人に裏切られた思いで,
船に乗り,パラオ本島に避難したそうです。
空襲を避けるため,夜蔭にまぎれての避難でした。

【説明】アメリカ軍は沖から四千トンの砲弾を浴びせ,ジャングルを完全に焼き払いました。
日本軍一万人,アメリカ軍四万八千人。
パラオの海も空も支配したアメリカ軍は,この戦いを三日で終わらせる計画でした。
しかし,日本軍は地下を掘って島全体を要塞にして戦ったため,戦いは70日間続きました。
日本軍の戦死者10695名,アメリカ軍は2336名。
日本軍は本土に次の電文を送り,玉砕します。

サクラ サクラ

【発問】島の人達は何人くらい亡くなったでしょうか。予想をノートに書きなさい。

0人

【説明】島の人達が避難する時の話です。船に乗る時,見送る人は誰も居ませんでした。
しかし,出発の合図が鳴り,船が岸辺を離れた次の瞬間,
ペリリュー島に残る日本兵の全員が浜に走り出てきました。
そして,島の人達と一緒に歌った日本の歌を大声で歌いながら,
ちぎれるほど手を振って見送ったそうです。
その時,船に乗った島の人達は,全てを理解しました。
「日本の兵隊さんたちは,我々の命を助けるために,あんな態度をとったのだ。」
船の上では誰もが泣いていたそうです。
戦いが終わり,島に戻ってきたとき,あちこちに日本兵の遺体がありました。
村人達は,涙を流しながら埋葬したそうです。
日本兵の墓は遺族がいつ来ても恥ずかしくないよう今も手入れをされています。

【説明】アメリカ軍太平洋艦隊司令長官は,次のような言葉を残しています。

諸国から訪れる旅人たちよ この島を守るために 日本軍人が 
いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを 伝えられよ
                 太平洋艦隊司令長官 ニミッツ

【説明】戦後,パラオはアメリカの統治を受けますが,1993年に「パラオ共和国」として独立します。
独立にあたって,国旗を制定する時,広く国民にデザインを募集しました。
その時,日本の国旗に似ているこのデザインが圧倒的な人気を集めたそうです。

【指示】今日のお勉強をまとめておきなさい。


【参考資料】
■服部剛『ペリリュー島の戦い』(自由主義史観研究会『歴史と教育』誌 第148号所収)
「ねずきちのひとりごと」
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