【説明】これは,ガス室に入れられて殺された子供が履いていた靴です。
・・・・1938年 今からおよそ70年前です。
ヨーロッパのナチス・ドイツはユダヤ人の虐殺を始めました。
虐殺とは,異常なやり方で人を殺すことです。
【指示】地図帳でドイツという国を探してごらんなさい。
(●ヒトラーの写真を提示)
【説明】ナチス・ドイツを率いていた人です。ヒトラーといいます。
(●ナチス・ドイツの侵略の地図を提示)
【説明】ナチス・ドイツは周りの国と戦争をし,ドイツの領土を広げました。この矢印は軍隊を進めた方向を表しています。
地図帳と見比べてごらんなさい。
【説明】虐殺されたユダヤ人は約600万人と言われています。
その中には子供が150万人含まれていました。
【発問】ナチス・ドイツのやったことについてどう思いますか?(列指名)
・ひどいと思います。
・残酷です。
・どうしてそんなことをしたんですか?
(ここで簡単にヒトラーがユダヤ人を迫害した理由についてふれる)
【説明】1933年から,ヒトラーはドイツの首相になってすぐに,ユダヤ人を追い詰め苦しめる政策を始めました。
1941年には,ヨーロッパにいるユダヤ人を皆殺しにする計画を立てています。
【発問】ユダヤ人はどうしたでしょう?(列指名)
・逃げたと思います。
【説明】ユダヤ人は安全な外国に脱出しようと考えました。
しかし,すでにナチス・ドイツが周りの国を占領していましたので,ユダヤ人を受け入れられる国がほとんどありませんでした。
多くのユダヤ人はナチス・ドイツ軍につかまり,強制収容所に入れられ,そこで死を迎えたのです。
【指示】地図帳51頁でリトアニアという国を見つけてごらんなさい。
(●ナチス・ドイツの侵略の地図を提示)
【説明】当時,リトアニアにいたユダヤ人にも危険が迫ってきました。
しかし,この国にいたユダヤ人には,危険から逃げる方法が一つだけありました。
日本の通過ビザをもらって外国に脱出するという方法です。
(●日本領事館に訪れたユダヤ人の写真を提示
【説明】当時のリトアニアは,ソ連に占領されていましたが,日本領事館に大勢のユダヤ人が訪れました。
日本の通過ビザは日本領事館が発行することになっているからです。
【発問】通過ビザはすぐに発行されたと思いますか。
発行されたと思う人?発行されなかったと思う人?
【説明】(●杉原千畝の写真を提示)
リトアニアの首都カウナスにあった日本領事館には杉原千畝という外交官がいました。
【発問】杉原千畝さんが通過ビザを発行するには多くの困難がありました。
どんな困難があったでしょうか。予想してノートに書いてごらんなさい。
【説明】杉原さんが所属する外務省から,通過ビザを発行する条件として,次のような指示がありました。
@行先国に入る許可手続を終え完了していること
A交通費をもっていること
B日本で生活する費用をもっていること
しかし,そんな条件を満たしている人は,そう多くなかったのです。
当時ドイツと日本は日独伊三国軍事同盟を結ぶ直前だった。
従って,本来ならドイツがやっていることと反対のことを表だっては出来ない。
しかし,当時の日本は世界に先駆けて「人種平等」を国際社会に訴えていた。
ユダヤ人迫害は,日本の主張する「人種平等」に反する。
そこで,ユダヤ人であっても,日本国内の規則で公正に日本に受け入れることにした。
これは,1938(昭和13年)「猶太(ユダヤ)人対策要綱」として,日本政府で正式に決められたことである。
【発問】しかし,領事館の前には大勢のユダヤ人がビザの発行を求めています。
ユダヤ人を襲う手はすぐそこまで迫っています。杉原さんはどうしたでしょうか。予想をノートに書いてごらんなさい。
【説明】杉原千畝さんは,外務省が求める条件を無視し,通過ビザを自分の判断で発行したのです。
杉原さんの働きにより,当時リトアニアにいたユダヤ人のうち,およそ6,000人が何とか外国に脱出することが出来たといわれています。
【説明】(●杉原千畝が発給したビザの写真を提示)
杉原さんが発行したビザです。ビザを発行されたユダヤ人が想い出にとずっと大切に保管していたものです。
【説明】杉原千畝さんはこうおっしゃっています。
「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く。」
【説明】杉原千畝さんはおよそ1か月間ずっと昼食抜きで通過ビザを書き続けました。
全て手書きです。書いても書いても,ビザの発行を求めるユダヤ人は増える一方でした。
・・・ついには,ソ連から「領事館を出る」よう命令がありました。
しかし,杉原さんはそれを無視してビザを書き続けました。命がけでした。
・・・そして,もうこれ以上リトアニアにいられないというぎりぎりまで,
リトアニアから出る列車に乗る駅のホームでも,杉原さんは通過ビザを書き続けました。
出発の時間がきてしまい,ビザを発行できなかった人に対して次のような言葉を残しながら・・・。
許してください,みなさん。わたしには,もうこれ以上,書くことはできません・・・・・。
みなさんのご無事をいのっています。
【発問】杉原さんが助けたユダヤ人は6,000人とも8,000人とも言われています。
杉原さんがやったことをどう思いますか。
【説明】(●ヤド・バシェム賞のメダルを提示)
これは1985年1月18日,イスラエル政府から杉原さんにおくられたメダルです。
ヤド・バシェム賞といいます。
ヤド・バシェムとは「諸国民の中の正義の人」という意味です。
日本人として初めての受賞です。
偉い人として扱われることを好まなかった杉原さんでしたが,この賞は受け取りました。
【説明】戦争が終わった後,杉原千畝さんは外務省を辞めさせられました。
日本が連合軍の占領下になり,外務省職員が大勢リストラされています。
しかし,杉原千畝さんは次のような言葉を残しています。
「私のしたことは外交官としては間違ったことだったのかもしれない。
しかし,私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった。
そして,それは人間として正しい行動だった」
【説明】人間同士が大勢殺し合っていたこの時代,私たちの国,日本には
杉原千畝さんのように命がけで人の命を救う努力をした方がいらっしゃっいました。
【発問】ユダヤ人の命を救った日本人は当時,杉原千畝さんだけだったのでしょうか?
【説明】(●写真「樋口季一郎」提示)
1838(昭和13年),陸軍の軍人だった樋口季一郎(少将)という方は,満洲でおよそ20,000人のユダヤ人の命を救いました。
極寒の地で,他に行き場の無かったユダヤ人を満洲に受け入れたのです。
近年,日本の外務省外交資料館で発見された資料の中には,
杉原氏のほかにも,ウイーン,ハンブルグ,ストックホルムなど欧州12箇所の日本領事館で,
ユダヤ避難民へ,数百件のビザが発行された記録が見つかっているという。
これら記録は,たんに杉原氏だけが思いつきでビザを発給したわけではないことを裏付けている。
ボストン大学教授・ヒレル・レビン氏は,
「杉原氏はユダヤ人救出の為の何らかのネットワークを持っていたと確信する」と語っているという。
【説明】日本は当時,国際連盟で唯一,「人種差別の廃止」を提案した国でした。
世界各国は平等であり,各民族も平等に扱われるべきだと主張していたのです。
【説明】最後に,杉原千畝さんの言葉を紹介します。日本通過ビザを渡す時にユダヤ人に言った言葉です。
「世界は,大きな車輪のようなものですからね。
対立したり,あらそったりせずに,みんなで手をつなぎあって,
まわっていかなければなりません・・・。
では,お元気で,幸運をいのります。」
【指示】今日のお勉強の感想をノートにまとめておきなさい。
・ヒトラーはすごく残酷な人だけど,杉原千畝さんはとてもすごい人でした。
・こわい時代だったけど,杉原さんは命がけで人の命を救ってえらいと思います。
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