私の海軍
昭和19年の或る日、海軍予備学生の志願試験が行われました。
絶対になれないと、思いつつ試験を受けました。
試験問題は歯車の回転問題で小学生でも出来そうでした。
合格エ!!!本当か?勤務先が陸軍第一航空技術研究所の技術雇員
だった所為と考えました。
陸軍と海軍の関係は微妙だったからで、と私はそう感じました。
飛行機が好きで小学6年から模型飛行機を作り、戦前ガソリン
エンジンの模型飛行機を飛ばしていました。
中学も私立の工業高校の付属で、自動車屋の息子にはそれで良いと
父が諦めた様でした。付属から予科、そして芝浦高等工学校(現芝浦
工業大学)に進み機械科を卒業しました。昭和18年秋、戦時中の
短縮で卒業しました。飛行機に興味があるので立川の陸軍第一
航空技術研究所に勤務、色々の陸軍機の基礎研究を見ました。
戦局が段々悪くなる昭和19年の或る日、何人かの技術少尉が中尉
に進級した祝宴が行われました。
当日当直だつた私に新中尉が「遅くなるから俺がカギを掛けるから
帰って良いよ」と言いました。
翌朝当直下士官がきて、カギを掛けてない!!とスリッパでピンタを
受けました。之が野蛮な陸軍に愛想を着かせました。
のんびりと基礎研究をしている士官達、小佐が「栗山君、直進する
飛行爆弾は出来ないかな?」なんて言う質問もありました。
福生に行き「このデータを取ってきてくれ」といわれ行きましたら
格納庫にFW−190がありました。狭い操縦席はドイツ人には
窮屈じゃないかと感じました。エンジンの後がスマートでした。
10月の或る日、海軍に入隊するので退職する日、研究所の女の子が
お守りを泣きそうな顔をして差し出しました。
一度だけ手紙を書きましたが、海軍は候文で手紙を書く事になって
いて受取った女の子は?で其の後手紙は来ませんでした。
入隊は館山の、州の崎海軍航空隊です。姉が付いて来ました。
之が後ほど私に取って重大な事件になります。
兵舎に入って一種軍装(紺色の士官服)に着替えて短剣の付いたベルト
を〆ると一応服装は海軍士官です。
広場に集合
訓示があり、夕食は兵舎です。ご馳走が有りました。今日はお客様だよ。
夕方、広場に集合、娑婆氣を捨てろ!!!股を開け、歯を食いしばれ。
教官の愛の鉄拳が顎に飛び、3人ほど回ってきて遣られるが、此方も
気合が入っているから、殆ど平気でした。
それから兵舎に戻って釣り床の訓練、昔の戦艦三笠に白い釣り床が
色々の所に防弾の為か?付いています。寝る為のハンモックですが
フックが高く背の低い者には苦労する作業です。
次の朝起床ラッパで起きて釣り床を片付け、海軍体操をして食事です。
え?之だけアルミのお椀に麦飯が8分目、海水みたいな汁、沢あん
3切れ之が毎日、朝昼夕です。おまけに兵舎以外は走る。最初に脱落
したのは、太った背の低い坊ちゃん風の良い男。腹が減って我慢が
成らず炊事場に入り込んで飯を食ったとか!!!其の日以来、見えなく
なりました。タバコを吸わないので良い事がありました。外出の時、
誉れ(軍のタバコ)を持って農家に行き飯と交換して貰いました。
夏ミカンが成って居ても全然青くて食べられません。えびすビールの
「胃の薬エビオス」を買って食べる人もいましたが?ですね。2ヶ月
で頬が落ちて1,55m体重50Kが40Kになりました。
10000メートル走で80人中2位。1人だけ特別心臓の強いのが居ました。
手旗信号も必須です。手を挙げたまま、わざと長くしたりします。腕が
疲れるのも訓練でしょうが、何とも言えません。
いくら良い大学を出ても手旗を覚えるのは別の脳味噌が必要らしいです。
「カラスがカアカアないていた」と読めたので、教官の所に行き囁くと
「良し」で先に兵舎に帰れた時も有りました。
トトトツートも電信でしたが、これも飛行機の点滅信号で覚えなければ
なりません。
相撲もします。
学生時代、休み時間には砂場でズボンのままで良く取り組みました。
柔道の町道場に通った事が有りましたので、之も幸いでした。
大学生、高等学校の在学又は卒業した若者ばかりです。中でも吃驚した
のはレスリングの選手が居た事でした。スープレックスの大技で投げ飛
ばしたのを始めて見ました。相撲では見る事が有りませんが、食事が
少ないので相手が軽いので出来たのでしょうか?。私は最後の方に出て
色々の技で相手がでて来なくなるまで残りました。お前強いんだなーと
先輩に言われました。
朝の短距離マラソンは毎日あります。
海軍士官は「スマートで、目先が利いて几帳面、負けじ魂、これぞ船
乗り」でなければならない。私は特に私立の工業高校でしたので、先輩
予備学生教官から目に付けられました。戦艦大和を画いて見ろと言う
問題が出ました。艦首に特徴が有りますが、残念ながら本物は見れま
せんでした。ペン画の様に描いたらそんなに丁寧に描かなくても良い、
と言われました。椛島勝一のペン画が駆逐艦、巡洋艦等で少年倶楽部
に良く出てました。私の家の左筋違いに、其の頃朝日新聞の写真部長
で浅井 仁さんが住んでいました。よく庭でゴルフのパターの練習を
していました。挿絵も書いていたとか?で椛島勝一氏も遊びに来てい
たと、後で聞きました。或る日こんな所で合うなんて!!!陸軍の研究所
に居た時の工員に会いました。箱森君で、私が海軍に入った直後に
予科錬の宣伝に飛行機を操縦できると思い込み志願したと思います。
予備学生でも酷い食事ですから、又鉄拳だけですから教官もそう多く
は殴れません。然し兵隊はバット(精神注入棒)で尻を叩くので教官は
幾らでも打つ事が出来ます。辛いと涙を流していました。
研究所では腹一杯の昼飯と充分な副食を戴き。昼休みは女の子を交えて
バレーボールで楽しんでいました。太リ気味の中尉さんは蹴球で駆け
ずり回っていました。其の後、矢張り志願した旭岡君に会いました。
彼も辛いと涙を浮かべていました。
夜兵舎の脇を通ると、バシッバシッとバットの低い音が聞えます。
飛行機の飛の字も無い基礎教育の航空隊ですから、我慢我慢です。
2ヶ月の基礎教育を終り専門教育の航空隊に行きます。写真、空爆、
魚雷などに散っていきます。教官の手伝いの兵曹が魚雷が良いよと
耳打ちしてくれました。と言う事で横須賀航空隊の隣の田浦航空隊に
決めました。
12月の或る日、館山から小型輸送船で横須賀に向かいました。波は
静かでした。田浦空は鉄筋2階建で兵舎とは違がいました。食事も
少し良く成りました。相変わらずハンモックです。巡検ラッパが良く
響きます。「巡検終りタバコ盆だせ」の放送があると、開放された
気分になります。タバコを吸わないのは真面目な私一人でした。
家に手紙でタバコ吸うよーと連絡しました。起床ラッパで釣床を巻き
岸壁に走ります。大声で号令の練習です。気お付けー、休め、おも
かーじ、とーりかじ、もどせ―、前進微そーく、原速、停−止、後進、
前の灯台よーそろ、等等。それから食事。航空魚雷の整備で、直進
させる転輪、上下の舵を取る深度計、等や機体に取り付ける練習、
発射試験はドンと言う音で発射されるとブルーの航跡を残して猛
スピードで直進します。燃料がなくなると火薬室の海水に空気が
入り頭を上げて浮いています。航跡が直線であれば整備が良い事です。
魚雷は水の中で直進するのに、こまめに動いています。それは魚のヒレ
のようです。
飛行機ではエルロンです。旋回する時はエルロンでしますが、魚雷の
エルロンは10センチ角ほどです。水の中ではこまめにエルロンを動か
して直進します。攻撃機から離れた魚雷は小さいエルロンでは姿勢を
制御出来ません。其処で考えたのが夾板(キヨウハン)で面積を大きく
して空中の姿勢を制御します。海面に着いた時は瞬時に壊れます。
このエルロンは地球独楽(真鍮の径約10cm、厚さ約4cm)の原理を
利用しています。
或る日映画を写すから見に行けとのこと。なんと始めて見るテクニ
カラーでデズニーの漫画です。小人が地下で一生懸命試験管の大きい
のに色々の色を作って居ます。春になると色々な色の花が咲くと言う
カラーの見本映画です。フイリッピンのアメリカ軍から手に入れた
らしいです。何かカクンときました。同僚と剣道をしたり、相撲を
取ったりしましたが、軍歌が印象に残ります。80人ですが2重に円を
描いて整列、まいえーすすめの号令で、歌詞を持った右手を上げ、
軍艦マーチの「守るも攻めるも黒鋼の浮かべる城ぞ頼みなる〜。
海行かば水漬く屍、山行かば草むす屍、おおー君の辺にーこそ死なめ、
かえーリみわせじ。内と外の回転が違います。白い作業服に煌々と
月の光に、この軍歌で神秘的な気持ちになります。お国の為に死を
恐れない気持ちになるから不思議です。

カッター訓練、乗る前に兵舎の中で腰掛けてオールを漕ぐ練習から
始める。いーち、にー。いーで背を後ろに倒す。にーで前に屈む、
この時いーで態と止めたままにして教官は苦しくなるのを見ている。
これを何回もすると尻が木の長椅子のカドで赤くなる風呂に入ると
ヒリヒリする。カツターは岸壁に吊ってある。海面近くまで降ろすと
「放テ」の号令でバシャンと海面に浮かぶ。60年前の事を思い出して
パソコンを打っているが、片側5か6人艇長、舵取り1人だと思う。
オールを立てて、岸壁を離れてオールを水の上に浮かべる。縁に
オールの太さより少し大き目の金属で出来たU字型の溝に入れる。
左側の者はオールの太い所を右手で握る太さの半分程しか握れない。
左手は丁度楽に握れる太さになったオールの端をにぎる。
練習した通りにオールを漕ぐ。力がいる。腹筋を使うのとお尻の
ヒリヒリが困る。
或る日、田浦から横須賀港に向かう濃霧で教官のカッターが見え
ないので皆で一服する。突然霧が上がった。ピカと金色が見えた!!!
戦艦長門の艦首の大きい「菊の御紋」でした。
鉄の塊のような4〜5階の高さの艦首です。良く浮いて居ると瞬間考え
てしまいます。其の前で一服。長門は燃料も無いし出れば沈められる
情けないです。

其れでも日曜は休みがある。兵舎の裏の山からスピーカーから
歌が流れてくる「湖畔の宿」です。外出も出来る様になり、大船まで
行き私達の拠点を探した。15分程歩いて半農の家に決めました。
家に入りお願いして休ませて貰う。以後外出の時は家族と合う事も
出来るようになる。父母も喜びました。グループは5人ですが、
他の家族は遠方なのか会見にきませんでした。
何時もくる時はご馳走を作って来てくれました。たった一度だけ
右手の手のひらの薬指のまめから菌が入ったのか物凄く膨れました。
麻酔も打たずメスで切ると膿が出て治りましたが、父母はがっかり
したと思います。
ある外出日、帰る時空襲警報がなり電車が止まりました。帰隊時間が
迫りますが、横須賀線は動きません。2時間程遅れて他の仲間と帰隊
しましたが鉄拳2発で終りました。

雪が降りました。広場で棒倒しです40人づっで猛烈でした。
横須賀から峠を越えて逗子鎌倉と行軍しました。何だか学生の時に
習志野で野外教練をしたのを思い出します。夜間の遭遇戦の設定ですが、
今考えると無駄な行軍ですが何か遠足のような、探検隊みたいでした。
朝になり鶴岡八幡宮で水兵を指揮して伝家の宝刀を抜いて「奉げつつ」を
しました。召集された兵隊達が来ました。4〜50歳の人達です家族と別れ、
若い兵曹に尻を叩かれていると思うと気の毒でした。軍隊は上下の関係は
厳しいですので。
魚雷の調整は機械科でしたのと小6年から自動車の運転も出来たし、模型
のガソリンエンジンの手入れ調整等は専門でしたので魚雷の構造も直ぐ
覚えられました。いまでも長いバルブの名前を、覚えています。
「清水、燃料、押し空気、遮断弁」です。
或る日、水兵がミスをしましたのを兵曹が4つんばいにさせバットの代
わりに4メータ程の棒で尻を叩きました。水兵は前に飛んでいきました。
何をされても文句は言えません。  

いよいよ訓練を終り、実施部隊に分れる事になりました。海軍は
長男は家を継ぐ必要上外地には出さないと言う話しを聞きました。
隣の横須賀航空隊を希望しました。
私は横空に居れば新鋭機が見られると言う事で決めました。
兵舎は防空壕の中、仲の良い守屋さんと一緒です。2段ベット上に私、
下に守屋です。スピーカで起床ラッパ、外の広場で体操の号令等で、
忙しいと普段は思いません。

当直将校の日になりました。軍艦旗の掲揚です。15分前に兵隊を
指揮して掲揚場に行き、整列します。5分前、そして私が「ささげ―」 
(時間!!!)「つつ」と言うと、ラツパに合わせて軍艦旗が上がります。
軍艦好きから飛行機好きな私には最高の時でした。
当直将校は色々仕事があります。たまたま外出員がいるときは、隊列の
中を服装検査して回り、空襲警報に対処する事項を大声で訓示したり
しました。4月から終戦まで私が見たのはF6Fグラマンの機銃掃射だけ
でした。B29は高高度で飛来しましたが、爆弾は落としません。
或る時大空をふと眺めると青空に波のような波紋のようなものが見えま
した。高度が高いので大きな波です動いています。不思議な現象です。
見た人居ますか?横須賀は占領した時使うので、空襲はしないと其の頃
アメリカは言っていたそうです。

外出員を迎えに横須賀港まで迎えに行きます。ランチです。
始めての艇長です。前進微速、原速、等で岸壁に着きます。
水兵を乗せて帰ります。
停泊地に止まる時まごまごしていたら機関室から「停止します」
兵学校での先輩がいて「舟を壊しても良いから」命令を出せと
注意された。本当に壊したらどうなるのかなー?
衛兵所の当直将校をした時、いきなり入ってきた中尉から一発やられま
した。衛兵の兵曹が戦地帰りで気が立っているのです、と言ってくれた。
この兵曹は三条出身で伯父さんの名前を知っていました。
当直の終りは巡検です。巡検ラッパが鳴り響きます。し−んとした
兵舎の釣り床の下を潜り走り回る。巡検終り「タバコ盆出せ」の放送で
1日が終ります。横空に来てから、ガンル−ムで食事です。
盛りっきりのお椀でなく「従兵、お代わり」と言うと直ぐお代わり出来ま
すし、副食もよくなりました。体重も55キロになり、頬も丸みが出ました。
或る日ガンル−ムが、割れるくらい強烈にピアノを弾いている方がいま
した。戦地から帰った方か、之から戦地に出掛ける方か凄い迫力でした。
残念ながら未だ曲名等の知識は有りませんでした。
当直将校の他は之と言った仕事は有りません。朝の体操の指導と
参加位でわりにのんびりしていました。

或る日横須賀海軍工廠に従妹が来ているとの連絡が有り、合いに行きま
した。防空壕の中で薄暗い所で一生懸命フライスバンを使いこなしてい
ました。新潟から女子挺身隊で来ていましたが、此処までしなければ
ならないのかと考えました。

国産ロケット迎撃機の秋水を見たのはテスト飛行の前日で昭和20年7月
6日です。何気なく飛行場に目をやると月世界の探検服を着たような人
が2〜3人して、オレンジイエローで無尾翼の小さい機体のエンジンテス
トをしていました。前に動かないように両翼からワイヤーで地上の杭に
固定されていました。10メートル以内に近寄りますと、ロケットの出口
から20cm程の青白い炎が3角に見えました。其の空気振動は腹の部分に
相当の振動を伝えました。之が明日テスト飛行をする、秋水でした。
7月ですので白服の軍服と紺色の軍服の将校が大勢集まっています。
7日は初飛行です。そろそろかなと思い飛行場に歩いていくと頭の上を
燃料を捨てながら風切り音で秋水が飛んでいきました。海に不時着すれ
ば良いと思いましたが旋回したので高度が下がり建物に接触回転して落
ちました。翌日、飛行艇等の水上機を引き上げる坂のような場所の近く
の格納庫で犬塚大尉の葬儀が行われました。正式の参加では有りません
でしたが、前でお参りしました。残念でした。

陸軍第一航空研究所にいた時 キ108の高高度戦闘機の気密室の研究班
でしたので、ロ式B型双発研究機に乗って見る機会に恵まれました。
立川飛行場から飛び立ち高度を上げて富士山の火口の真上に来た時は
火口が茶碗の大きさに見えました。
5000m位の高度でしたでしょうか、気密室の所為で地上と同じです。
さて海軍に入ったのだから、一度は乗りたいと思っていました。
航空機雷のテストで一式陸攻が飛ぶと言う話しを耳にしました。
大急ぎで飛行服を着て飛行場に行きました。
葉巻型の堂々とした一式陸攻機です。胴体日の丸の処から入る。
済みません、後部銃座に移動して下さい。上がったら前に来て下さい。
銃座は透明で下が丸見えです。ゆっくり離陸するちょつと頭を下げる位
で操縦席の後ろに立つ。下を見ると道路が見えるが直ぐ切れて又道路が
見える。トンネルだらけの山でした。
横須賀の海に航空機雷を投下する。空色のパラシュートが開き、濃紺の
海に落ちるが色の対比が素晴らしく綺麗でした。

航空魚雷に新型が出来ました。魚雷が水中を走り始めると水中凧が
水車の原理で出て来て魚雷に引かれて行きます。ワイヤーの長さは
大体の大型艦の巾の半分程です。戦艦は特に舷側は40cm砲の弾丸を
防御するには、40cmの厚さをと言うのが普通でした。
大型艦を一発の魚雷で沈めるには比較的薄い艦底で爆発させるのが
最高の効果があります。凧は金ぴかに光った金物で「真鍮か砲金」です。
先端は軟らかく潰れるとフックが外れワイヤーが戻ります。
その時爆薬が破裂します。魚雷の先頭部は半丸型です。尖らすと
早く走ると思いますが何処に行くか判りません!!!
凧は約10〜15cm程の巾で後退角が強い物で垂直尾翼は下側にでて居ます。
横空のゼロ戦は毎日必ず飛行します。しかし空襲警報が出ると、
本土決戦用に温存して隠します。終戦間近にアメリカ軍の大艦隊が
本土の向けて航行中との連絡で、横空の飛行場が温存機で一杯になりま
した。私は何も命令を受けていませんが、父が日本刀の古刀で作って
くれた軍刀を右手に持って飛行場に行きました。
轟々とエンジンの音がします。心が高ぶります。
銀河!!! 頼もしい機体です。何機あるのか?
滑走路が見えない位です。  
誤報と判って翌朝は全機、何処に?行ったのか。
軍刀は?どちらにしても軍刀は飾り?ですね。

防空壕の中に「桜花一型」と「桜花二型」がゴロゴロおいてあった。
特攻機ですが一式陸攻の下に付けた人間飛行爆弾です。
親機が遅いので途中で落とされて成功しなくなったようです。
私の親友の黒田和夫さんは予科錬に私より少し早く海軍に入りました。
関西の方で空襲を受けた時に見方機が追っかないのを見て
「おそいなー」と仲間と話したら後ろに先輩がいて2人とも夜になって
殴られ仲間は直ぐ倒れたが、黒田さんは体格が良いので顔が2倍位に
脹れるほど殴られたそうです。
長男は外地に出さない方針の海軍も上記の問題は別で「桜花」の
搭乗を命じられて、相当のストレスを抱えた毎日でした。
幸いと言うか終戦で無事帰り、カメラ雑誌の賞を取ったり、ラジコンの
パイロンレースに凝ったりして本場まで見に行ったりしていました。
最後の模型はライブスチームで蒸気機関車。人が乗れる物を作って楽し
んでいました。
桜花二型はロケットでなくて小さいエンジンが着いていました。
終戦で家に持って帰りたかったです。モターボートを作ろうと考えた
のですが車がないと動かせません。残念!!!
横空は新型海軍機が良く顔?を見せました。実験航空隊?とか。
おや?見た事ないぞ、零戦より一回り大きい2段上半角で、後は
そう変った所はない。烈風でした。
あまり活躍しないで終戦になりました。

オレンジイエローの大きな4発機が来た!!連山です。排気タービン付きの
エンジンでスマートな機体です。直ぐ三沢に飛んで行きました。

デッカイ単発機だなー、エンジンをふかすとノーズギアが下がる。
アメリカのP−39エアロコブラを大きくしたような偵察機「景雲」の
機体でした。2重反転式6枚ペラも構造が複雑で間に合わないので、
中止になりました。オレンジイエローの試作機で独特なエンジン音で
したが調子が出ないようでした。
試作機が来ても空襲があるので直ぐよそえ行きます。舟で木更津に運ば
れたとか。
 
同じ試作機でも橘花は木更津でテスト飛行をしましたが、2回目で
飛行不能になり横空には飛来しませんでした。
先尾翼機の震電は九州なので残念でした。

横空には二式大艇が陸上に置いて有りましたが、其の頃では大きい
飛行艇で、ゆりかもめで今でも見る事が出来ます。
夜烏と言う飛行艇も有りました。宮崎 駿氏の「紅の豚」に出てくる
ような時代物でした。
九八式水上偵察機でしょうか?
97大艇は館山の海に浮いていました。
軽い音で飛んでいるのは東海でした。前部が透明で角張ってJU88みたい
かな?

グラマンが機銃掃射にきました。守屋さんは訓練用の魚雷を回収に
出掛けましたが、機銃掃射に合いました。ジグザクに走りましたが
機銃の弾が海に当たる水柱が、もの凄く滝のようだったとか又甲板や
操舵室にいた兵曹等、下の部屋に逃げ込んだそうです。上にいたのは
2人だけとかで、艇長として信頼されました。或いはアメリカの
パイロットが遊び半分に脅かしたのかも知れません。
防空壕の前でグラマンの機銃掃射を横から見ましたが、普通は機体が
水平になり迎角で上に向かい上昇すると思いましたが機体が斜め下を
向いたまま上昇したので、吃驚しました。

零戦には思い出があります。昭和15〜17年頃。羽田飛行場で報国号の
献納式があると言うので出掛けました。ん?エンジン音がする。
零戦の編隊飛行でした。1列に直進飛行、横1列に斜め旋回飛行、
連続宙返り、始めて見る零戦の熟練操縦士による最高のAIR、SHOW
でした。このSHOWを見た方は80歳を過ぎている方で何人も居ないと思い
ます。本当に色々の飛行機を見る事が出来て幸せでした。
81、5歳で模型屋一代記とダブっているのもありますが年の所為ですので
お許しください。
戦後はアメリカのスミソニアン博物館やイギリスのショートサンダ―
ランド飛行艇が外に置いてある博物館等を見学して色々有名機を見る
事が出来ました。見ただけで嬉しく又、写真を撮って楽しくと言う事
なんです。

B29の空襲が夜に行はれました。横須賀から見ると赤い空が見えます。
この空襲で強制疎開で私の家が壊され、三条に送る為に駅に置いて有る
家財一切が赤い夜空に消えて行きました。
翌日の朝から夕方まで空が黄色く見え、太陽は薄いオレンジ色でした。
強制疎開に掛からなければ、付近の家は残っていましたのでなぜ?!!と
考えました。
私が運転を覚えた車庫は10年程前まで有りましたが、今はビルになって
いました。平塚小学校は建て替えられましたが敷地や回りの木は徳川
研究所以来の木も残って居そうです。

遂に終戦の前日になりました、明日は重大の放送が有るから集まるよう
にとの事です。防空壕の中で終戦の玉音放送がやっと聞き取れました。
航空隊でも色々な所が在った様で最後まで戦うのだと言う所も有ると
聞きました。横空は篭城するとか?先ず塩を作るのだ?平たい畳1枚
より大きい渕が20cm程の鍋?を作り海水を入れ赤い本「秘密書類」を
ぼんぼん燃やしました。と言う事で極秘の書類は持ち帰れませんでした。
魚雷の潤滑油は白締め油で、近くの漁師に燃料を出してエビを捕ってて
貰いました。
天麩羅にして頂きましたが最高の珍味でした。
水雷長から集合の連絡が有りました。
日本は負けた。之からは「忠孝の忠」が無くなるが、家に帰ったら「孝」の
方を忘れないで貰いたい。と簡単だが今まで心配を掛けた父母に孝行
する事を誓った。違う防空壕の中で退職金を2000円ほど戴いて8月中に
疎開先の三条に帰りました。私達と同じ年代の若者が数え切れない戦闘
で死んでいます。勝てば官軍、負ければ賊軍と昔から言いますが、今回
の開戦には色々と考えさせられます。そのような状態になったのは「喧嘩
両成敗」でない事はたしかです。小さい国土でスイスの様に戦争をしない
国も有りますが、其の時の時代では我慢出来なくなるような日本の情勢
でした。
負けてアメリカの底力をやっと判ったようです。開戦時代は私の家の
車はフオード、売っているガソリンは貝印のシエルでした。ガソリン
を入れに来た車はフオード、シボレー、ダッヂ、デソート、プリムス、
オースチン等でダットサンは未だ殆どガソリンを入れに来ませんでした。
海国日本は戦車に力を入れませんでしたし、大量生産の基礎が出来てま
せんでした。
幕末頃の剣と鉄砲の様にゼロ戦も剣の達人ですが一撃離脱の物量のアメ
リカには負けました。
今、北朝鮮が開戦当時の日本と似た所もあると思います。
地球、水の地球、海賊、ノーベルが作らなくても戦争はこうなっただ
ろうか?

「私の海軍」おわり               禁無断転用

模型屋一代記は膨大な50年間の製品の撮影の為と、中越地震の被害で
3階の倉庫がめちゃくちゃなのと、暑さで作業ができず、遅れています。
脳味噌が痛まないうちに「私の海軍」を打ちました。